角落山鬼談(群馬県高崎市) | 怖い話まとめ【日本全国47都道府県別】

角落山鬼談(群馬県高崎市)

O崎さんは多趣味な三十代の男性で、空手や柔道、キックボクシングなど、さまざまな武道や格闘技を学んできた。また、修験道を齧ったこともあって、たまに山籠りを行っている。単独で深山幽谷に寝泊まりし、ひたすら立ち木を打ち続けるそうだ。

夏の終わりにO崎さんは、高崎市郊外の倉渕町にある角落山で山籠りを行うことにした。この山は標高一三九三メートル、上こう野ずけの国(昔の群馬県)出身説がある平安時代の武将、碓氷貞光と戦った鬼が、その角を切り落とされて逃げ込んだ伝説が残されている。O崎さんが角落山を修行の場に選んだのは、

(貞光の霊力にあやかりたい)

との思いがあったからだという。

ミズナラなどの広葉樹が茂った森の中にテントを張ったO崎さんは、左右の拳にバンテージを巻いて修行を始めた。何も食わず、何も飲まずに何時間もの間、ひたすら同じ木の幹を打って、打って、打ちまくる。拳の皮膚が裂けて、バンテージが鮮血に染まってゆく。

午後五時半、O崎さんは疲れ切って、〈立ち木打ち〉を終了した。

拳にできた傷の手当てをする。午後六時、晩夏の夕暮れは近づいていたが、日没にはまだ少し時間があった。それでも疲れ切っていた彼は早々とテントに入り、眠ろうと身を横たえた。目を閉じていると──。

ききききき……。ききききき……。

遠くから、細くて甲高い鳴き声が聞こえてきた。

(ヒグラシかな?それにしては変な声だが……)

O崎さんは身動きする余力もなく、目を閉じていた。鳴き声はずっと聞こえている。

ききききききき……。ききききききき……。

(ヒグラシじゃないな。猿の声か?)

少しして、声がこちらに近づいてきた。その声はどんどん大きくなってきたかと思うと、ついにはテントの周囲を回り始めた。下草を踏む足音も聞こえてくる。

「うっひぇひぇひぇひぇひぇっ……」

猿が鳴いているのでもないらしい。ようやくわかった。人間の女が笑う声だ。それも狂人のように調子が外れた声で、休むことなく笑い続けている。

(こんな時間に、こんな所へ女が一人で……?)

O崎さんは相手が生身の人間ではないことを悟った。

(まずいぞ。場所が悪過ぎる)

今の彼は己の肉体以外の武器を持たず、味方もいなければ、遠く離れた人里まで逃げる余力や身を隠す場所もない。そこで修験道を齧った際に覚えた真言の経文を唱え始めた。

女の笑い声はまだ続いている。O崎さんは誦ず経きょうしながら、テントのジッパーを少しずつ開けてみた。すると──。

「うっひぇひぇひぇひぇひぇっ……」

痩せた全裸の女が四つん這いになって、狼のようにテントの周囲を走り回っていた。濃くなってきた夕闇に遮られて、顔立ちや年恰好ははっきりしないが、銀色の頭髪が腰の辺りまで伸びている。時折、銀髪の間から、ぎらりと光る目をO崎さんに向けてきた。胴の真ん中が極端に細くくびれていて、胸と腰が背骨だけで繋がっているように見える。

その異様な風貌を目の当たりにしたO崎さんは、全身に鳥肌が立つのを禁じ得なかった。

ただ、幸いなことに、女はテントの中まで入ってくることができないらしい。

O崎さんは夢中で真言を唱え続けた。

夕闇がますます濃くなってきて、暗黒へと変わる。夜陰に隠されて女の姿は見えなくなったが、笑い声と足音だけは依然として聞こえてくる。そこへ眠気が襲ってきた。

(眠ってはいけない……。眠っては……)

頭を振って耐えつつ、誦経を続けようとしたが、いつの間にか眠ってしまった。

目が覚めると、外が明るい。朝になっていた。

(昨日の夕方のことは、夢だったのかもしれないな)

青空を仰ぐと、そんな気さえしてくる。

だが、O崎さんが一歩テントの外に出てみると、周囲の地面がひどく荒らされていた。草が抉られ、何か大きなものを引き摺り回したような痕跡があって、彼のものとは明らかに異なる長い銀髪が沢山散乱していたという。

O崎さんは不快な気分になったが、無事だったことに胸を撫で下ろして下山した。自宅のアパートへ帰り、その夜、ベッドに横になって眠ろうとしたときのことである。

ききききききき……。ききききききき……。

遠くからヒグラシの鳴き声に似た声が聞こえてきた。

(まさか、あの女が?)

うとうとしかけていたO崎さんは、一気に目が冴えた。

「うっひぇひぇひぇひぇひぇっ……」

幽鬼のような女が、暗い部屋の隅に屈み込んでいる。O崎さんは跳ね起きたが、女は這いながら躍りかかってきて、彼の左膝に噛みついた。寝起きで身体が上手く動かず、かわすことができなかったのだ。左膝に激痛が走る。

O崎さんは堪らず呻いたが、すぐに真言を唱え始めた。女の歯が膝に食い込んでくる。しかし、負けずに真言を唱え続けると、女の姿は徐々に消えていった。

その姿が完全に消滅してから、電灯を点けて噛まれた部分を見ると、歯形は残っておらず、唾液すら付着していなかった。ベッドの布団や床に長い銀髪は落ちていない。

(今度こそ、夢だったのかもしれないな。悪い夢を見たんだろう)

その夜はそれだけで済んだのだが、翌日になって、O崎さんは仕事先で左膝に激痛を感じた。我慢できずに病院へ通うようになり、治療を受けたものの、なかなか良くならなかった。結局、左膝は一年後に手術を受けて、ようやく完治したという。